奴一人の気持から始まった

古川凱章の「麻雀新撰組にかけた男たち」

「小説 阿佐田哲也」の中に、新撰組結成に関し、こんな記述がある。
『けれどもこのことに関しては、奴一人の気持だったので小島武夫と古川凱章は、参加するについてそれぞれべつの志があったと思う。』
「奴」(やつ)とはむろんアサ哲のことで、「このこと」とは新撰組の旗揚げ。小島氏と私の実名が出ているが、ほかには板坂康弘氏なども実名で登場。しかし、注目すべきは「奴一人の気持」という箇所だろう。

ほとんどの人はなんのことかその内容がすぐには浮かんでこないので、読んでる勢いのまま、通りすぎてしまうのではないだろうか。

しかし、新撰組の構想が「奴一人の気持」から始まったことをチラリとでも吐露したのは初めてのことで、ここはもう少し深く考察してみたい。
「奴一人の気持」とは「オレ一人の個人的な事情」、だから殊更(ことさら)世間に発表するようなものではない、といったメッセージが込められているように思われる。

それがどのようなものであるかはまったくどこにも書かれていないが、ヒントがないわけではない。

本音は胸の奥深くに閉じ込めたまま、その本音から出てきた一連の“ないない尽くし”である。

たとえば「麻雀新撰組は職能団体ではない」の一言。これを言い換えると「給料とかギャラなんてものは出ませんよ」ということになりはしないか。

さらに「タレント売り込みのエージェントでもない」と言っているが、これは「そのような教育をしてくれるマネージャーなんて者もいませんよ」ということではないだろうか。

エッセイ等に書かれてはいないが、実際にあった“ないない尽くし”はまだまだほかにもあった。たとえばすでに指摘しておいた、「新撰組としての規約」と「新撰組の競技ルール」がなかったこと。さらに「この三人以外に、メンバーを増やす気は積極的にはなかった」との表明。

この3点を組み合わせると、どのような読み解きが出てくるだろうか。「小説 阿佐田哲也」流に書くと、「奴には、麻雀愛好家グループを創ろうなんて気持は、はなからなかった」と、なりはしないだろうか。さらに「なにものにも縛られず、本人たちの意思で動いたらいい。競技ルールなんてものは、どのようなものであれ、相手に任せておけば済むこと。」

新撰組前夜のこの頃、アサ哲の周囲にはマージャン仲間がいなかった。「マージャンからはしばらく離れていたからなァ」と本人も洩らしていたように、“現役選手”ではなかったのである。

なのに「マージャン放浪記」の大ヒット。そして出版社からの“続投”要請。本人も最初からそのつもりであれば、渡りに舟でひき受けただろうが、とっておきの懐古ネタはすべて使いきってしまった。

となると、作家としてはどのように対策を講ずるだろうか。二番煎じと評されるようなものは書きたくない。「麻雀放浪記」が初めての“本格的”マージャン小説と言われたように、読者にとっては今まで読んだことのない世界、もしくはその捉え方を示さなければならない。おそらく、結果がどのようなものになるか、この時点では当のアサ哲自身にもわかってはいなかったに違いない。

「あきれた・ぼういず」マージャン版の演技者として私たち二人を受け入れたアサ哲が、私たちに対し、なんの指示も出さなかったのはそのためではなかろうか。