新撰組の看板はどこへ

古川凱章の「麻雀新撰組にかけた男たち」

昭和45年(1970)に麻雀新撰組が結成され、このわずか3年後にアサ哲の隊長降板が発表されたので、新撰組としての活動はこの期間に限られることになる。

しかし今、「どんなことをされてきましたか」と訊かれても、私としては言葉に詰まるだけで、「うーん、ほとんど何もしてこなかったんじゃないのかなァ」と溜め息まじりに応えるしかない。

たとえばタイトル戦などに選手として参加する場合でもその観戦記には「麻雀新撰組の古川凱章」と書かれるが、イベントのあと、一体どこがどう新撰組だったのか、と割り切れない想いで振り返るのは当の私自身。

これぞ新撰組という意識で行動できたことなど、まるでなかったと言ってもよい。しかし、何もなかったでは得心のいかない向きもあろうかと思うので、今回はアサ哲と共にどんなことをしてきたかを掘り起こしてみたい。

私はアサ哲のマージャン観戦記に関してはアシスタント的な役割をしていたので、原稿の下地になる整理牌譜は毎週届けていた。アサ哲宅には担当の雑誌編集者も当然のように出入りしていて、顔を合わせればそれなりに話も広がり賑やかになる。

話題はマージャンだけに留まらず、話が発展して出来たのが<ゾロ目の会>。これは落語の観賞会といったもので会場はアサ哲宅。ゾロ目とは11日とか22日とかいった開催日のことで、若い落語家が来て生の噺を聞かせてくれたりもした。

アサ哲が懇意にしていた落語家は数多(あまた)いたようだが、ゾロ目の日、アサ哲は立川談志師匠から贈られた特製の浴衣などをぞろりとひっかけ、現れたりする。

アサ哲と落語の縁は相当に深く、小学生の頃から生家でもあった牛込から浅草まで、歩いて演芸などを覗きに行ったこともしばしば。「小説の書き方は、落語から教えてもらった」と言ったこともあった。

一般的には作家の藤原審爾氏(1921~1984)と山田風太郎氏(1922~2001)が色川武大氏の師匠と言われているが、藤原邸は荻窪にあったこともあって、私もアサ哲に伴われ何度か行ったことがある。

藤原氏はマージャンの方もかなりの筋金入りで、若い頃は代打ち稼業などもしていたといった話もある。

藤原邸の建て替えはアサ哲の荻窪時代にあったことなので、その間、藤原邸のチワワがアサ哲宅に移動していたのではないだろうか。なにしろ、アサ哲の転居は何度も見てきたが、あのチワワ以外のペットなどはただの一度も見たことがなかったからである。

草の寄席を観に出掛けたこともある。歩きながらあっちこっちを眺め、昔はこんなもんじゃなかった、もっともっと活気にあふれ、この街を歩くだけである種の充実感がわいてきたもんだ、などと話してくれた。

そして寄席の小屋に入ると、そのまま客席に行くのではなく、必ず楽屋に顔を出し、挨拶を兼ねた立ち話などをしていた。

(3月28日に開催された、「江田五月参議院議長杯 第4期健康麻将名人戦」において招待選手の中で唯一人決勝に進出して気を吐いた筆者)