アサ哲は本人の個人的な事情から麻雀新撰組なるものを思いつき、「あきれた・ぼういずのマージャン版みたいなことをやりたい」と言って、小島武夫氏と古川凱章を仲間とした。
私たち2人はこの“新企画”の方にだけ想いが勝手に迷走し、アサ哲が何故そのようなものを思いついたのかの、言うなれば“動機”については訊こうともしなかった。
雑誌等で麻雀新撰組の登場を知った一般の人たちの反応も私たち2人と似たようなもので、そんなグループにはいってみたいという声があちこちから出てきた。
アサ哲はエッセイの中で『奇妙なことには、麻雀新撰組に加わりたいという人物があとを絶たないことである。』と書いているが、なぜ「奇妙なことに」という表現なのかをアサ哲の身になって考えてもらいたい。
単なるレトリックだろうと思い、軽く読み流す人もいるだろうが、ここには認識の相違といったものがあるように思えてならない。
認識のひとつは「新撰組にはいりたい」という、腕に覚えのある人たちのもの。なぜはいりたいのかを訊くまでもなく、このひと言で納得してしまうほど、わかりやすい共通性がある。
ところがアサ哲はこれらの人たちの意向を「奇妙」であると感じている。
もし、入隊希望者の新撰組に対する認識とアサ哲の認識がまったくいっしょのものならば、肯定的というか好意的というか、そのような類の反応になるのではなかろうか。では、どのような認識の相違であったかというと、これまで私が指摘してきたヒントや“証拠”の数々からも、アサ哲のこんな呟きが聞こえてくる。
「マージャンのグループを作って、みんなでゲームを楽しもうなんてこと、オレは考えていない。オレは作家である以上、なにを考えるにせよ、根っこはそこにある」と。
作家活動、平たくいえば小説を書くことだが、そのために麻雀新撰組を思いつき、それがどのように動き出すか、見守っているところだ、との呟きも聞こえてくる。
だから隊員を増やそうなんてことも考えておらず、青写真なども作らなかった。
小島・古川、そしてこのオレがどのように絡(から)み合い、どのようなことが起きるか、まったく想像もできないような設定にしておいたほうが、頭の中で練り上げたものよりもはるかに躍動感のある産物が出てくるのではなかろうか。
このような呟きが聞こえてくれば、以前にも引用したが「小説 阿佐田哲也」の中の一文、『やつ一人の気持』の内容がほのかに見えてくるのではないだろうか。
しかし、「奴一人の気持」がアサ哲の胸の中で渦巻いていた間、その情態はおそらく形の定まらない物たちが出たりはいったりする、いわばカオス(混沌)のようなものではなかったか。
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