アサ哲の旅打ち

古川凱章の「麻雀新撰組にかけた男たち」

太平洋戦争は昭和20年(1945)に終結したが、やれやれと思った人たちの生活が元のようなものに戻ったわけではない。ないものだらけの情況は後遺症のようになかなか消えることがなかった。

アサ哲少年はこのあたりのことを「三博四食五眠」の中で次のように書いている。『喰うために働くというのはあのことであろう。かつぎ屋、靴みがき、叩き売り、炭屋の小僧、いろんなことをやったが大半はヤミ市で買い喰いしちまった。また喰っても喰ってもよく腹が空いたな、あの頃は。』

そしてこの後に(空襲による)焼け跡やバラック小屋などが出てきて、着のみ着のままで諸方を押し歩いていたアサ哲が出てくる。まさに「麻雀放浪記」そのまま。

アサ哲は10代後半からのこの時期を「グレていた頃」と表現しているが、その具体例が前述の連載物にもあった。『そのときの旅は、まもなく旅宿代にも困るようになり、海辺の小さな寺に泊めて貰ったり、大雪の中、駅で抱き合ったりしたが、とうとう雪の高田市の割烹で、女は仲居になり、私は用心棒のようなヒモのような、得体の知れない存在で居坐った。』

これは東京からの駆落ちの一件だが、流れ歩いた土地は北陸→新潟→山形だったり、富山→直江津→柏崎だったりしたようだ。

そう言えばアサ哲の小品の中に地方の温泉場を舞台にしたものがあった。しかし現実はかなり厳しかったようで、意外にも『旅打ちという奴は、とにかく、少しでもいいから毎日毎日確実に勝っていかねばならない。仲間が居たり多少の余裕があればそうでもないが、一人の旅打ちで負けてカッとあつくなるわけにもいかない。ハコテンになれば動きがとれなくなる。負けそうな気配があるときはひきあげる。

臆病至極で、強い相手は避け、甘いカモばかり探す。これが旅打ちの極意である。だから、温泉場がよろしい。漁港がよろしい。雪国の冬、ヒマ人が多い土地がよろしい。しかしそんな甘いカモは居ないもので、一番困るのは、適当な場がみつからないことである。』

このころのアサ哲少年はかなりスリムな体型であったように思われる。私がはじめてアサ哲の居宅に行った時、アサ哲は40台にはいったばかりだったが、すでに立派な太鼓腹をしていた。

だから若い頃のアサ哲に関しては想像するしかないわけだが、ある時、1枚の写真を見せられたことがある。おそらくアルバムやスクラップ・ブックなどといったものは作らない生活をしてきた人なのであろう。

その写真を手に取って見た時、「なぜ私に芥川龍之介の写真を見せるのか」と思ったが、さらによくよく見れば、被写体が芥川龍之介ではないことに気づき、アサ哲本人に違いないこともすぐにわかった。

若い頃のアサ哲はそれほどに精悍そのものの空気を漂わせていた。