アサ哲に「東京へ出て来ないか」と言われたのは昭和45年のことだが、仕事も徐々に増え、その多くは現場取材の立ち合いだったりしたので、ほぼ1年後、私は横浜からでは通いきれないと判断し、アサ哲の住む荻窪近くに引っ越すことにした。
アサ哲が書いていた誌上対局の観戦記は毎週の「週刊ポスト」以外にも年間ものや特別企画ものなど何本もあったので、私はしょっちゅうアサ哲の許に整理牌譜をひっさげて通うことになった。
入り口を開けるとその音に反応してまっ先に出迎えてくれるのが数匹のチワワ。以前の目白の棲み処(か)には居なかったペットだが、来客たちの反応はさまざまだったようで、中には悲鳴を上げる人もいたようで、そんな時はアサ哲夫人が駆けつけたとか。
部屋は2階建ての2階で何部屋かあったようだが、これは他人に貸すために造り変えられたもので、入り口までの階段の造り方を見てもこれは明きらか。
応接間にしていたのは最初の角部屋でかなり広かった。一隅に水屋の跡と思えるようなものがあったので、もともとの住人はお茶の先生でもしていたのだろうか。
アサ哲はこの部屋で来客と会い、マージャンを打ったり食事などもここでしていた。
どっしりと胡坐(あぐら)をかいて坐っているアサ哲の腹の上にはチワワ。リーチといったかチョンボといったか私には見分けがつかない。
普通このような動物は膝と膝との間に丸くなるものだがなにしろアサ哲、この時すでに太鼓腹、チワワとしては丘の上で昼寝をしているようなものだったのだろう。
ある時、何を食べていたかまでの記憶は消えてしまったが、正面に坐っていたアサ哲がボソリと「キミはうまそうに喰うねェ」と言ったことがある。私としては思いもよらないひと言で、私本人には分からないそんな一面があったのかと、今でもはっきりと覚えている。
整理牌譜を届けに行った時など、なんとなく雑談はしていたが、マージャン談義とか新撰組についての話とかは、まずもってしたことがない。
目の前にあるのはアサ哲が食べたいと思って作った手料理なので、話はそのあたりからそろそろと始まるわけだが始まったが最後、これが延々と続き時を忘れてしまうこともしばしば。
一番印象的だったのはおでんが出てきた時だった。今では専門店やコンビニなどで見かけるが、あのおでん鍋をもう少しコンパクトにしたような、要するに家庭用に造られたもので、それが使い古された気配もなく、テーブルの中央に銅独特の光沢を放ち、置かれていた。
その時はアサ哲自身が購入したものと勝手に思っていたが、長いお付合いのあとの今、思い返すとどうもしっくりこないものがある。
アサ哲が整理牌譜がない情況で観戦記を書いていた頃、私が出向くと坐卓の上には敷物が拡げられ、マージャン牌が載っていた。
急所と思える局面をアサ哲自身が「牌起こし」をしていたわけだが、その敷物をよくよく見れば、なんとそれはアサ哲本人の胴巻き。隣の部屋にはマージャン卓もあるのにである。
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